四半世記

感想文ページ(ネタバレあり)

ファンタジア(+ゲキノウタ)感想 Feuille-Morte

ーすべての語り手たちを戒めるため

(ブックレットより)

 

RD-soundsという方の主催するFeuille-Morteという音楽サークルがコミックマーケット96(2019年夏)で発売した「ファンタジア」というオリジナルアルバムについて

そして同サークルがコミックマーケット94で発売した「ゲキノウタ」というオリジナルアルバムについて

構造がとても複雑。もしこれから聞く人がいたら、

ファンタジアのCD → 付属の小冊子 → ゲキノウタのCD

の順がおすすめかもしれない。記事もその順番で紹介してます。

 

公式ページ

www.feuille-morte.com

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大きな目次

ファンタジア

世界と物語 -カトカ・エリオーシュの世界ー

ゲキノウタ

結び

 

 

ファンタジアについて

ファンタジアはロベルト・ドーソンという劇作家の遺稿『ファントマ』を音楽として表現したものという位置づけになっている。

この多層構造については後述するとして、劇(あるいは遺稿を基にしたこのCD)であるファンタジアは、《ファントマ》たる怪人が各幕の女性たちの物語に介入する形で展開される。

歌詞の書き方がまさしく劇という形で、それぞれの登場人物のセリフになっている。この形式はかなり音作りにも影響していて、曲の多様さを売りにするRD氏の作品のなかではかなり統一性がある。

 

演目は

*. 最後の犠牲者へ st.めらみぽっぷ)

序章 怪人 st.めらみぽっぷ

第一幕 或る幸せの帰結 st.nayuta

第二幕 羊の夢 st.ランコ

第三幕 踊れオフィーリア st.中惠光城

第四幕 月だけがみていた st.葉月ゆら

第五幕 失われし氓 st.Φ串Φ

第六幕 分かたれた命 st.藍月なくる 

終幕 ファントマ st.上記全員

 

 

序幕 怪人 

「私は、美しきものたちを救いたい」

 

劇ファンタジアの主役といっていい《ファントマ》の一人語り。

演劇でよくある登場人物の自己紹介パート。美しきものたちを救いたい、という目的を高らかに宣言するので、限定されるのかと思ってしまう。

この点はこの怪人そのものの欲望なのか怪人を創造した存在の欲望なのか、やや悩ましいところ。いずれにせよ、返す刀で斬られそうな傲慢さ。

 

 

第一幕 或る幸せの帰結

「その声は神の言葉」

 

籠の中の鳥というのを体現したかのようなエレノアという少女の曲。

父がすべての力を注ぎこんで幸せでいさせようと、幸せを押しつけられる。その幸せは様々なものの犠牲のうえに成り立つとしても。

富裕な家の子息が自分の家に反抗するというプロット自体はもはや古典といっていいやつだけど、怪人により父を殺されて悲しいと思い知るのがなんともいえず素敵。

やや先どりして述べてしまうが、カトカ嬢も父親から離れたときは悲しいと感じて泣いたのだろうか。この曲が最もカトカ嬢と重なるため、そういう面でも興味深い曲になっている。

 

曲調もあわせてこのアルバムで一番好きな曲。

「いかなる手立ても以ってあの娘の↑幸せを」という力強さとか

「さあ笑いなさいな ↑お飾り姫」の自嘲的な響きとか

音の面でもすごく癖になる。

 

 

第二幕 羊の夢

「柵の中でも 夢見る羊もいるのに」

 

牧場で生まれ一生羊を飼うことを運命づけられているビアンカという少女の曲。

意地悪爺という存在が示唆されているけれども、ビアンカの人生の狭隘が経済的な理由に基づくのか文字通り意地悪によるものなのかは曲のなかでは明らかにはならない。

 

牧場だけで育ちながら遠い世界を見てみたいという欲望を持つものなのだろうか、遠い世界にアクセスできる時代なのか、その欲望は誰かに植え付けられたものなにか。

 

「邪魔立てするものは……もはや羊以外、いないだろう」とい怪人の語りも少し気になる。牧場に閉じ込められるのは嫌だけれども羊に対しては愛着があるのだろうか。

それとも羊にはもっと他の意味があるかもしれない。歌詞カードには羊の絵(かわいい)も描かれていることだし。

 

 

第三幕 踊れオフィーリア

「貴方もきっと同じなの 生き方を選べはしないのね」

 

酒場で踊り続けるしか生きる術がないオフィーリアという少女の曲。

「金貨の重さの分だけ」という表現から借金のかたとして売られたのだろうか、描写的に明確ではないけれども、酒場は売春宿的な場所なのかもしれない。

 

そんな彼女が望んだ裁きは、金貨を積み上げる男だけではなく酒場にいる大勢。踊れと囃したてるすべての人間が彼女の人生の狭隘であり、彼女の世界そのものが敵。そのすべてを血の海に沈めてみる夜明けの光はさも強い光なのだろう。

しかしそうして脱け出した先でも彼女はやはり踊るのだ。うーん。

 

上に引いた「貴方」というのは怪人のことだと思われる。怪人も生き方を選べない、美しいものを人生の狭隘から救い出すという生き方も選べたわけではないということか。

それを見抜くのがオフィーリアということは、こんな酒場での人生でも前曲二人と比べて世界との関わりは多少なりとも広かったということなのかもしれない。

 

 

第四幕 月だけが見ていた

「私ねこの人に恋していたのよ たとえ何か他のものを目当てにしていても 関係ないくらいに」

 

恋に恋している、多くに恋をしたいと思っている少女アメリの曲。

この曲はいろいろと謎が多いと思う。まず対象の男がすでに怪人に屠られている。

アメリの言動をみるに、小さな町で出会った良人と結婚するはずでそれも自分を納得させていたはずなのに、月夜に魔が差して怪人に殺させてしまったということだろうか。

 

前までの3人の少女と比べてアメリは明確な憎しみがないように感じる。あるいは殺害の動機というべきか。本当にふっと”恋多き恋に生きる自分”に思いをはせてぱっとやってしまったような。だから、アルバムのなかですごく異質。

アメリが気ままに踊ってるような情景が浮かぶ、途中の支離滅裂な言動も、意味はわからないけど歌っている様子はわかってしまう。怪人は添えるだけって感じ。心なしか最後の語りでは距離をひいてみてるよう、他の曲と比べて語り口調に温度差がある。

 

 

全体的にふわっとした感想になったけど、この曲はスルメだと思う。

何度も聞いてるとすごく良くなってきた。 アメリというキャラの魅力が感覚でわかってくるのだ。

 

 

第五幕 失われし氓 

「けれど誰一人として神の言葉を聞きもしない」

 

先祖代々から続く信仰をもつ砂漠の民の一人であるサティの曲。

氓という漢字が「たみ」で変換できることをはじめて知りました。

 

砂漠という過酷な環境を生きるためにいつか辿り着く最後の地の存在を信じ祈りを捧げる、いわば逃れられない現実を受容するための信仰。その信仰を疑ってしまったがゆえに怪人の力を借りて長を殺し一族から離れる。

あるいは、サティはある意味では信仰に忠実だったのかもしれない。信じているからこそ神の存在を疑ってしまった。

それでも結局はどうみても神にはみえない怪人に縋ることになる。それはそれで新たな苦しみを負わせてそう。

 

 

第六幕 分かたれた命

「わたしの大切なあなた」

 

片方は守るもの片方は選ばれるものという役割のルイーゼとロッテ姉妹の曲。

めぐり会った男がロッテを選んだことでどうあっても選ばれないことに絶望したルイーゼがロッテを怪人の力を借りてめちゃくちゃにする。

 

ルイーゼは「私の大切なロッテ」といいロッテは「わたしの大切なあなた」という。ここに関係の非対称性がある。可哀想なルイーゼの立場からみるとなにもかも選ばれてもっていくロッテはなかなかの性悪にみえる。

ロッテの心情は曲からでは掴み切れないけれども、ルイーゼの「あなたは幸せになって欲しいの」という言葉をそのまま真に受けてた可能性もある…さすがに無垢さを信じすぎだろうか。

 

教会の鐘がルイーゼの一番聞きたかった音、というのはどういうことなのだろう。想い人に選ばれて教会で自らが結ばれたかったということだろうか、それにしては男の話が出てこなさすぎる。

感情がロッテに向いている執着している、そうするとロッテがいるなかで自分が選ばれたかったのかもしれない。

いずれにせよ、ルイーゼが一番聞きたかった音は怪人の介入があっても聞けないまま。可哀想なルイーゼ。

 

どの曲もすごいけど特にこの曲は歌っている藍月なくるという方がすごいと思う。

姉妹の歌い分け、激高、呆然とした「鐘が鳴るよ」

 

 

終幕 ファントマ

「最良の脚本を 最良の、人生を」

 

前曲までの6人の少女と《ファントマ》たる怪人の対峙。

脚本によれば、怪人は役割を亡くし意思を亡くした少女たちに新たな役割を背負わせようとする。美しきものを人生の狭隘から救い出すことを目的としていたはずの怪人が、あらたな狭隘を背負わせる立場になる。

少女たちは怪人に従う。怪人は未だ為すべきことが残っていると語り、全ての語り手へ警告する。そして舞台の幕は閉じる。

 

ところが、歌では少女たちは怪人の手を除け、自らの創造主へ感謝を述べる。機械仕掛けの神が突然降りてきて彼女たちに突然意思を授けたかのよう。それは創造主の意思を超えた怪人への救いなのか、欺瞞がみせる幻想家。

 

これは一体誰が語った物語なのだ?

 

 

*. 最後の犠牲者へ

「最良の脚本を 最良の、人生を」

 

CD上は1曲目に入っているのだけれど、位置づけとしては終章まで聞いてからリピートで聞いてみるとしっくりくるかもしれない。

これは誰が誰に歌った曲かというと、たぶん劇作家ロベルト・ドーソンが自らが創造したキャラクターである怪人へ歌った曲なのだと思う。声は怪人と同じめらみぽっぷさんであるけれども歌い方は区別をつけているから。

 

この曲はファンタジアのCDに付属する小冊子と、公式に序章と位置付けられているゲキウノウタをあわせてみることでだいぶみえてくる。

ただ、せっかくだから予備知識なしでこの曲をみたときの感想もかいてみたい。

 

劇作家が怪人に与えた役割は主役で、「力を持つ影」として演じきることを求めている。最後の言葉として。まるで呪いのように強い言葉。

一方で「お前だけは 誰にも代役わらせない」とも表現している。他のキャラクターたちは代替が可能でもその最後の犠牲者だけは代えられない。それはもう作者の分身そのものといえるのではないか。

作家が作品に自らの魂、存在をこめる。自らそのものであっても、物語のなかではキャラクターでしかなく、限りなく自分に近くとも自分とは違う存在に語らせなけらばならない。だからこそ物語はときに作者の意図をこえた意味をもつ。

他の存在に仮託して自分を語らせること、その暗い歪み。この曲を聞いて思ったことはそういうことだった。

 

 

世界と物語 -カトカ・エリオーシュの世界ー

 

ファンタジアのCDについてくる小冊子。

驚いたことにこれは歌詞カードを補完しているとともにこれそのものがひとつの作品として独立している。

小冊子は、ファンタジアの作者ロベルト・ドーソン、本名カトカ・エリオーシュの作品郡のもつ世界を、イルヴァ・コリンスカーという人間が絵画として表現して展覧する、その展覧会の小冊子として位置づけられている。

ロベルト・ドーソンの人生や人間関係を取材したうえでファンタジアの各曲を絵で表現する、二次創作なのだ。

小冊子ではカトカ・エリオーシュが生前ロベルト・ドーソンという仮名を用いていたこと、彼女が死んだとき未発表の遺稿ファントマの怪人に殺されたかのように背中にナイフを突き立てられて死んだこと、広告作家である父と思想上の大きな軋轢があり家を出奔したことなどが語られている。

そして、そうした情報をふまえたうえでのイルヴァの解釈が巻末に書かれている。

 

注意点として、この小冊子は二次創作であるということだ。解釈違いが生じうるし、それを許容する作り方になっていると感じた。

例えば、小冊子の第六幕分かたれた命の絵は、ルイーゼが自らの手でロッテを殺害している。一方で、ファントマの脚本のほうはルイーゼは怪人に「あいつを! めちゃくちゃにしてやってよ!」といっているけれどもルイーゼ自身が手を下したという表現はない。イルヴァの解釈を介しているわけだ。

だから、ファントマを、カトカの父を含めた目的のためにキャラクターを設計する全ての語り手たちを戒めるための復讐、とする解釈にはもちろん疑問を差しはさむ余地がある。

正直8割くらいは私自身が感じたことと同じだったけれども、すべてに納得したわけではなく「本当にそうなの?」という違和感はあった。

なんにせよ、もうひとつの資料、ファンタジアの序曲であるゲキノウタも併せてみるべき。

 

ところで、この小冊子で使われているはカトカの幼い頃の肖像画であるけれども、父親と袂を分かった後の世界を題材にしながら父親の庇護の下にいたであろう時代の絵を前面にもってくるのはなかなかに性質が悪い。そういう面からも、イルヴァ・コリンスカーというキャラクターを全面的に信用したくないというのもある。

 

ゲキノウタについて

 

ゲキノウタはファンタジアの1年前のC94(2018年夏)に世に出ている3トラック構成のミニアルバムである。

しかし、幼い頃のカトカ・エリオーシュが歌詞カードに出ており劇作家もロベルト・ドーソンと似た風貌になっていることから、ファンタジアとはストレートに繋がっているとみていいだろう。

 

曲目は

1. 名前の無い男 vo.頼経遥

2.  「劇」 st.頼経遥

*. 『劇作家』の独白 vo.めらみぽっぷ

 

 

1. 名前の無い男

「それがなぜ 行き過ぎた望みであるはずがない!!」

 

役割を与えられる前の怪人の歌。あるいは役を与えられる前のキャラクター一般の曲なのかもしれない。

失ったのかはじめからなかったのか、男は役を与えられなければ声を出すことすらできない。役を与えられ言葉を発し世界に存在すること、それが過ぎた望みであるはずがない。

失ったという可能性。最初は役があったのだとすれば、『劇作家』の独白も併せて考えるなら駄作として役をはく奪されたということなのだろう。

そしてキャラクターの声が聞こえたというカトカは、この曲のような叫びが聞こえたのだろうか。叫びを聞いたゆえに、それが真に迫っていたがゆえに最後の犠牲者へとしてしまったのだろうか。

名前の無い男ははたしてそれほどまでに重い呪いを受けることまで望んでいたか、気になるところではある。

 

 

2. 「劇」

一言の短いトラックだけれども、言葉を発することができなかった男が声を発したことから、役を与えられたということがわかる。

 

 

*. 『劇作家』の独白」

「そう呟く言葉 空々しく」

 

カトカとファントマにまつわることを理解して聞くとすっとくる曲。

一方ですさまじい自己矛盾をはらんだ恐ろしい曲。

 

目的のためにキャラクターを設定し駄作であれば打ち捨てる。それはカトカのみていた父の姿であり、父がカトカに対してしたかもしれないことだった。

だからこそ駄作達とともに語り手に反逆する。それがカトカの思想だった。

 

けれどもファンタジアを聞くとカトカが怪人に対して行ったこともおのれの思う役目を与えることだし、怪人を通してキャラクターを自由にしようとする試みも同じであったといえる。

だから、これは物語を創作する人の原罪なわけだ。例え原罪に自覚的であったとしてもそこから逃れることはできない。

 

ゲキノウタとファンタジアを通して聞いたときに感じたのがこの袋小路感。創作という手段を使って物語の世界にいようとするなら、キャラクターを自分の思うがままにするという傲慢は避けて通れない。目的のためにキャラクターを設計しようがキャラクターに人生を見出そうが、最終的に同じところに行きつく。

だからこそ、カトカは物語の外に結末をつくるしかなかったのではないか。怪人が全ての語り手達の後ろにいるという現実をつくりだす、あたかもキャラクターが自らの意思をもって存在しているかのように。

怪人が実際に存在しているかどうかはともかくとして、この試みによりカトカは世に名が知られて他の創作家の題材とされるに至った。自分が物語の中の存在となった。

これが彼女の望んだ結果なのかどうかはわからない。私は、ただただ業の深さを感じるだけ。

 

 

結び、ファントマとファンタジア

 

今回の作品を聞いてみた印象、狂気的ということ。

歌詞カードの他に小冊子が付属しているという豪華さ、その小冊子さえもひとつの創作品として成立しているという凝り方、そしてなによりキャラクターを自在に動かす創作そのものの業の深さというテーマの重さ。そのテーマが自分の背中に返ってくる自己矛盾。

内容的にも作風的にも人を選ぶかもしれないけれども、気構えなくとも多くの人が作り手としてキャラクターを動かすことができるようになった時代なので、私が感じたよりは刺さる人が多いかもしれない。

かくいう私はちょこっと創作はしたことがあるのだけれど本腰を入れてしたことはまだない。だから、このアルバムの魅力を本当に理解できているかは怪しい。本当はもっとファントマに感情移入をしたほうが楽しめるのかも。

そう考えると、創作の罪深さを描く今作は実は創作への誘いだったりして。昏い笑みを湛えながら地獄から手招きをする、そういう類の誘い。

 

最後に残った大きな疑問として、このファンタジアというアルバムそのものの位置づけがある。劇の題名である『ファントマ』を名に冠するのではなく、作中に一度も出てこない『ファンタジア』という題名がつけられている。

fantasiaという単語は直訳すると幻想曲という和訳になるらしい。あえて別の名前を冠した点に注目すれば、このアルバム自体をイルヴァによる「世界と物語」と同じ位相の、劇ファントマの世界を題材に音楽にした二次創作ととらえることもできよう。

セルフ二次創作、狂気を感じる入れ子構造。

そうすると、終幕ファントマの解釈も変わる。この曲に救いを感じるのか気味悪さを感じるか、私は後者を感じました。