わがままだ。あなたも わたしも。
(帯文から)
やがて君になる4巻の感想について
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3巻の感想はこちら
4巻の粗筋
3巻の終わりに、侑が燈子先輩のことを好きになった。
4巻の大筋は生徒会劇の準備。生徒会劇は脚本を書いたこよみの意図しないところで七海燈子のキャラクターとリンクする内容になる。劇の内容が明かされることで同時に燈子の内面も描かれる。
もうひとつは、侑の燈子へのアクション。3巻までで生じた侑の内面の変化が「あの人を変えたい」という形で行動にあらわれる。これは劇の結末の変更という形であらわれる。
そして4巻といえばベッドシーン。
えろい。服を脱がないベッドシーンがこんなにもやらしいとは。そしてやらしいだけではなく背筋がゾクッとするような冷たさも同時に味わえる。
アニメの12話のほうで忠実に再現されていたのでそちらも要チェックだ。
特に声がとてもよかった。BDが届くのが楽しみ。
七海燈子の「わがまま」
七海燈子がわがままだと言われそうなところはすでにいっぱいある。
1巻で「君はそのままでいいんだよ」と侑を励ました次の瞬間に「君のことになりそう」と言うところとか誰のことも特別に思わないところを好きなのに「好きでいさせて」と一途ぶったセリフを言うところとか
2巻で「先輩のこと好きにならないよ」と侑に言わせただけでは飽き足らず「劇を手伝って」「私といて」「ほかの人を好きにならないで」「私のこと嫌いにならないで」『私を好きにならないで』と数々の条件を追加するところとか
3巻で沙弥香の気持ちを知ってか知らずか「これからも頼むよ沙弥香」と言うところとか好きになってほしくないくせに侑からのキスをご褒美に設定するところとか
半分くらいずるいところリストだけど。
じゃあ小糸侑が七海燈子を「わがまま」だと感じているところはどこなのだろうか。
冒頭で紹介した「わがままだ。あなたも わたしも。」というのは帯文であり、作中で侑が燈子をわがままだという箇所はない。
侑が燈子に不満を感じているところ、思うものがあるところはどこか。それはやっぱり、ベッドシーンの「私は自分のことを嫌いだから」というところなのかな、と思う。
そのあとの駅での「先輩のばーか」という侑にしては強い言葉に直接的にかかるところだから。
そしてそれでいて侑のことを好きだと言ってくるところ。好きでいるために自分のことを好きにならないでと求めるところ。この片面的な関係を求めるところが侑でも「わがまま」だと思うところなのではなかろうか。
燈子はこの場面でなぜここまで「わがまま」を通そうとしているのだろうか。
実は燈子視点では「私のことを好きにならないで」と言うのはこの場面が初めてだったりする。
2巻の終わりでは心の中で言うだけだったり、3巻では侑がそうと推測している描写はあれども直接確かめるシーンはなかった。
そして4巻、先に切り出したのは侑で、合宿後に侑が燈子を自分の部屋に誘うシーン。
ここで、「先輩を好きにも嫌いにもならない」と言っている。
侑が「好きにならない」と言ったことは燈子にはどう映ったのだろうか。
心情は直接的には描かれていないけれど、このセリフを受けて渋っていた燈子が侑の部屋へ行き心置きなく甘えちらかしているので、効果はあったのだろう。
そして甘えちらかす流れで「侑は私のこと好きにならないでね?」と言っているのである。
燈子の視点から考えると変わらずにいてくれる侑に対して再確認の意味でこの言葉を発しているのだと思う。今のままで、私の望む侑のままでいてという言葉。
しかし、侑視点、そして読者の視点からすると侑はすでに燈子を好きになっている。だから燈子の「好きにならないで」という言葉は無理を強いているように見えて、呪いの言葉のように映る。それはもはや「わがまま」という域を超えているようにも。
侑の視点で感情移入しきっていくと燈子が暴君のような振舞いをしているようにみえるかもしれないが、燈子の視点で追っていくわがままという意識はないのかもしれない。もしかしたら1巻と同じようなニュアンスで言っているのかもしれない。
燈子の行動の是非というのは、一般的には否のほうが優勢な賛否両論だろうか。
ここまでされて(ベッドの上でキスをされて)好きになるなというほうがおかしい、という感じの意見をよく目にする。
個人的には、燃えるような熱情をもって好きでなくてもキスはできるし恋愛を模した行動はできると思うので、燈子が望むような一方的な関係も成立しなくはないと思う。一応そういう関係を望んでいることを表示しているから。
だから燈子の行動に対してあんまり肯定否定という感覚はない。
ただ、「わがまま」と言われればそうなのかなと思うくらい。
小糸侑の「わがまま」
侑のほうのわがままは本人がはっきり口にしている。
「七海先輩に自分のこと嫌いじゃなくなってほしい」
燈子がなぜ自分のことを嫌いなのか。
はっきりと明言されてはいないけど、まわりの部分は1~2巻で描かれてきた。
- 幼いころの燈子はいつも誰かに隠れてるなにもない(と本人は思っている)子どもだった。
- けれど誰からも慕われる姉が亡くなって、(燈子からみて)完璧な姉と同じになるようにした。
- そうして特別な自分になったら姉に向けられていたのと同じような好意を向けられるようになった。
こうして得た特別な自分は、例え侑が望んだとしても手放せないものである。燈子自身がそういう自分に価値を認めている。価値を認めるからこそ、なにもない自分に戻るわけにはいかない、嫌いという感情が生じる。
しかし一方でもともとの自分とのギャップに無理が生じてて、沙弥香にも気づかれているし侑には素の自分で甘える。
そんな燈子に対する4巻までの侑の対応は、基本的には燈子の望み通り甘えさせることに終始していた。心の中では無理をしてほしくないという感情を持ちつつも、2巻の河原のシーン以外はそれを内側に抑えていた。
河原のシーンのときも「そういう先輩のほうが好きな人もいますよ」という遠回りな言い方にしていた。
それが、4巻では「あの人を変えたい」という能動的な姿勢になっている(燈子に直接ぶつけているわけではないけれど)。姿勢の変化は、無理をしていない燈子が好きだから、好きになったからということになるのだろう。
私の好きなもののことを嫌いと言わないで。自身のことを嫌いと言わない、私の望む先輩になって。
これが侑が自分で言うところの「わがまま」なのだろう。
燈子の在り方は他人からみると歪に見えるから、侑の「わがまま」は自然なものにみえる。
それでも、自律的に決めた自身の在り方に他人が介入してくるというのは強い力の働きかけである。その原動力が「好き」ならばまさに「『好き』って暴力的な言葉だ」という燈子のセリフの通り。
侑はもともとそれを持っていなくて、3巻分の時間をかけてそれを手に入れたから、たぶん「好き」という言葉の強さについて自覚的なのだと思う。
だからこそ、好きだから相手を変えたいという多くの人が当然のようにもつ欲望を「わがまま」と自分で表現したのではないか。
「わがまま」と表現する侑の丁寧さというか、相手を尊重してる感じはすごく健気で報われてほしい、望みが叶ってほしい。少なくとも、その「わがまま」を燈子にストレートにぶつける機会がきてほしいと思う。
結び
こうして振り返ってみると4巻が物語の核が出揃って反転していく転換点のように感じる。
好きを知らない小糸侑と自分が見失っている七海燈子。
燈子は侑に好きを教えて侑はその好きをもって燈子に「自分」になってほしいと行動する。
やがて君になるというタイトルはこういう相互性を意味しているのかもしれない。