5回目の司法試験を来年受ける。
この字面から多くの人が想像する状況は人生的に躓いているという絵だと思うし、自分自身でも8割くらいはそう思ってる。
そういう状況の人間に、大抵の人は声をかけづらい。
自分の状況を客観的にみるとそうだし、声をかけづらい気持ちがわかるからこちらからも声をかけるのが面倒くさくなってしまう。もうちょっと切実にいえばそういう他人が関わりやすいように気を使って関わっていく気持ちの余裕がない。
特に、昔一緒に司法試験を勉強していた友人でもう受かった人ならなおさら。
それで、このあいだそういう友人の一人から合格しましたという報告をいただいた。
おめでとうという素直な気持ちと、うらやましいという妬みの気持ちと、自分はなにをやっているのだろうという絶望の気持ちが等しく湧いてきて、表面上は祝福だけを出しておいてその場はやり過ごせた。
やり過ごして思ったことは、黒一色の感情の変化じゃなかったんだからもうちょっとこういう関わりを保とうとしたほうがよかったんじゃないかということだった。
これは私の感覚ということを前提として。
友人関係の有効期限は2年くらいだと思う。
Twitterをやっていて自覚したことなのだけど、2年以上前のツイートをみると書いたときの気持ちを”思い出す”。瞬間的に自分が書いたものとは認識できない。
たとえ変わろうとしていなくとも2年くらいするとおのずと物の感じ方考え方が変わってしまう。
2年前の自分は記憶を媒介に繋がっている別の個性であって、最後に向き合ったのが2年以上前の友人は今の自分とは別の個性と友人だった人ということになる。
だから、友人関係の有効期限は2年くらい。
有効期限が切れた友人関係での思い出話は、互いに過去の亡霊と会話をしているようなもの。
もちろんそういう断絶があっても変わった今の個性同士で再び友人関係が始めることもあるでしょう。
学校という狭い生活空間でできた友人関係なんてしょせんその場だけのもので、大人の付き合いというのはそういう時間の断絶に耐えうるものだと考える人もいるかもしれない。
それでも、そういう学校みたいな閉鎖空間でできた友人関係を繋ぎ止めようと試みるくらいはしておいてもよかったんじゃないかな。
継続した関係ってロマンティックだし。大学を卒業してしまうと、生活を共有する閉鎖空間は家族関係か老人ホームくらいしかないからね。
連絡を受けて久しぶりに向き合って、失われたということを理解して。
かつて存在していた関係が少し眩しく見えてしまった。