四半世記

感想文ページ(ネタバレあり)

前夜

受けたのが遠い昔のように感じられるけれど、令和2年度の司法試験の結果が明日発表される。

受験資格5年目の試験、すなわち最後の試験の結果が。

 

率直な予想でいえば受かる20落ちる80くらい。短答式の点数も悪かったし論文が得意なわけでもできたという感覚があるわけでもない。落ち続けたこれまでとなにかが変わったわけでもない。

ただ今年はコロナウイルスという状況があったから、相対評価の試験でどういう結果になっているかはわからないというところ。

 

受験資格5回で5回受けた人っていうのはなかなかいないんじゃないかな。

多くの人は最初の1・2回で受かっていくか諦めるかするし、データとしても受け続けるほど合格する確率は下がっていく。5年は短い時間ではないしその間も生活もあるし人生観だって変わる。

なんで5回も受けることになったのか。

 

今は亡き、というか今年から共通テストに名称が変わったセンター試験。私の大学受験はセンター試験の結果を利用して法学部に進んだことで終わった。

法学部、自分で学部を選ぶなら高校生のときでも法律は選ばなかったと思う。好きだったのは公民分野よりも歴史とか文学だったし、出世がしたいとか金を稼ぎたいとかそういう野心も薄かった。ただ、状況に甘えて法学部を選んだ。

法学部というと表面的な理解からは官僚とか法曹とかそういう職業を思い浮かべる人も多い。私の親もそういう種類の人間で、その道を推奨された。不況で就職活動がうまくいかないときもその道が推奨された。そうして私は状況に甘えながら法学部出身でありながら未修者コースの法科大学院に入ったわけだ。

 

法科大学院、世間的には試験に役立たないとか時間の無駄とかくそみそにけなされることが多い存在だけど、個人的には楽しいと思える瞬間もあった。理解できたことも少しはあったし、面白い話も多かった。しかしこうした擁護をすでに4回試験に落ちている私がしてしまうところに法科大学院の欠陥がうかがえる。

法科大学院の失敗作、忌み子のような私が思うこのシステムの欠陥は、ひとことでいえば目的と手段がかみあってないということだ。これは日本の法学という学問根本の問題でもると思う。

法律実務は条文が神である。まず条文にかいてあることを把握しなければいけない。それは民法〇〇条を根拠にしています、と確信をもっていえなければならないし、場所をひけるようになんなきゃいけない。

ところがどっこい、日本の法律教育で最初にやることといえば政府解釈がそれに反してそうな憲法とか、ひとつの条文でどんだけ時間とんねんってう民法総則・物権とか、理論面が肥大化してる刑法総論とか。大学って反権力的なところがあるから条文をそのまま教えるのは教授としても本意じゃないのもわかるし、条文を把握することくらいは前提として学生が勝手にやってきてくれと思うのだろう。でも現実はそうじゃない。法定相続分がこうなっているというのを条文をおってひくのも重要な作業なのである。司法試験レベルであればむしろそういうところのほうが重要なのだろう。

 

結局のところ、条文が神であるということを本当に体で理解したのは1回目の試験に落ちて就職したあとだったと思う。

アマチュアレベルでいえば頭の良さは早熟さを意味する。条文が神であるということを何年もかかって理解した私は適性がない。そして条文が神であることを受容してしまえたならそれは法律分野でハイレベルな人間にはなれないだろう。

 

実際、法科大学院に入る前も、入ったあとも、泥船に乗っているような気がしてた。在学中から試験に受からない予感はしてたし、実際に1回目を受けたあとはこれはニート一直線という現実に直面したわけだ。だから早々に撤退のかまえをみせて就職活動をはじめ、かろうじて職をえて、実家からも離れ、中途半端に毎年試験を受けながら5回目不合格・失権の淵にある今に至る。

中途半端に毎年受けている理由は・・・

今まで費やしてきた時間がもったないという負けギャンブラー精神とか

本当は自分はもっとできるはずという無残なプライドとか

いつかわからなかったことがわかるようになるかもという根拠のない希望的観測とか

職場環境が悪化したときに転職の足がかりにしたいという実利的な打算とか

 

たぶんそういうのだと思う。これという強い理由はない。始まりがそうであったのように、今もない。

働きながら、という制限があるなかで今年もそれなりに努力はしたつもりだったけれど、5年間あれば2年間くらいはお金を貯めて仕事を辞めて試験に集中するという選択肢もあった。でも結局はしなかった。そして今のこの状況からみて、仕事を辞めなかった消極的な選択は心の底では正解だったとえ思っている。

 

けれど、そうして受験資格を使い切って今残ったものはなんだろう。

これで本当によかったの?という問いかけが頭のなかにある。

 

 

結果が出てないこの瞬間だからこそ言いたいことがある。

目標を達成できない努力は無駄、ってこと。

どんなことも無駄にはならない、と言う人もたくさんいた。でもそれは空しい慰めだと感じるよ。

将来別の形で役立つのかもしれないし今も役に立っているのかもしれない。

でもそんなことに意味はない。目標のためにやってたんだから。

達成できなかったという事実は結果として重く受け止めるのが、努力もどきに対してのせめてもの誠意なんじゃないかな。

これが5回も同じ試験を受けて最後に思ったこと。